【2】卑弥呼の墓か!? ~箸墓(箸中)古墳~
前回は「卑弥呼の宮殿跡か?~巻向遺跡~」でした。
今回はそれに関連して、卑弥呼の墓の有力候補と目されている箸墓(箸中)古墳の訪問記です。
箸墓(箸中)古墳は、余りにも有名なので、訪問した方もたくさんおられると思います。この古墳は全長約280メートルにも達する大型の前方後円墳であり、築造の時期については周濠内から発堀された土器の分析から、3世紀半ばあるいは後半というのが有力説です。
そうすると卑弥呼が死んだのが「魏志倭人伝」からして、西暦248年頃とされているので、箸墓(箸中)古墳が卑弥呼の墓に当たるとして年代的には大きな矛盾がありません。むしろ卑弥呼の死亡時期と箸墓(箸中)古墳の築造時期は付合するとも言えます。
また箸墓(箸中)古墳はその当時築造された前方後円墳としては、日本で最大規模であることも間違いのないところであり、卑弥呼が当時の倭の国を構成していた諸国から倭の王として「共立」されたうえに、魏の国から「親魏倭王」とされたことを踏まえると、そのような人物の墓としては、日本最大の前方後円墳である箸墓(箸中)古墳こそがふさわしいとも言えます。
宮内庁では、この箸墓(箸中)古墳を日本書紀に登場する第七代孝霊天皇の皇女「ヤマトトトヒモモソヒメ」の墓として管理しているようです。しかし、第七代孝霊天皇はいわゆる「欠史八代」の天皇のうちの一人であり、その実在性に大きな疑問符のある天皇です。私としては、日本古代史の最大の謎であり論争点である「邪馬台国の所在地論争」に終止符を打つべく、箸墓(箸中)古墳の本格的発掘調査を宮内庁が許可することを期待しています。
それにしても箸墓の名称の由来は、「ヤマトトトヒモモソヒメ」が箸にホトを突いて死んだからというのですから、想像するだけでなんとも痛そうな名前ですよね。
この箸墓(箸中)古墳には何回も訪問しているのですが、いつも箸墓(箸中)古墳の道路向かいにある三輪そうめんの店に寄るのも楽しみの一つですね。
今回もかなり以前の訪問時のものですが、一枚写真を添付します。