【7】行ってきました! 日向の西都原古墳群
以前から行ってみたかった宮崎県西都市の西都原古墳群に連休を利用して行ってきました。
この古墳群には3C半ばから7Cの間に築造された古墳が、なんと前方後円墳31基・円墳279基・方墳1基の合計311基もあるのです。古墳ファンにとって一度は足を運びたい遺跡です。
紙数の関係でとても全てを紹介できないのは残念ですが、早速まずは古墳群の一部を紹介します。
■写真(1)~4C後半築造の13号墳~
なんと緑がきれいな古墳でしょう。 写真の手前に13号墳を復元した模型が写っています。
古墳の多くが現在では草木に覆われてしまっているため、自然の緑のイメージが強いですが、築造当時には実際には写真手前の模型にあるように極めて人工的な築造物であったのです。古墳の築造には多くの労働力の動員が必要であり、それは権力を象徴する人工的築造物であったのが実際の姿であることがよくわかります。
■写真(2)
写真(2)は、この13号墳内部の遺体を安置した木棺を粘土や礫で覆った粘土郭という遺体埋葬部です。発掘当時の姿をそのまま見学できるようになっています。なおこの粘土郭からは、三角縁神獣鏡が出土しています。
■写真(3)
写真(3)は、鬼の窟という6C後半の古墳ですが、この古墳についても遺体埋葬部の横穴石室を見学できます。
■写真(4)
そして写真(4)が横穴石室の内部です。どことなく奈良県飛鳥の蘇我の馬子の墓と言われる石舞台古墳の石室部を思い出せる雰囲気ですね。
さて西都原古墳群の中で最大の大きさを誇り、隣接して5C前半に築造されたとされる男狭穂塚(オサホズカ)・女狭穂塚(メサホズカ・九州で最大の墳丘長176メートルの前方後円墳)は、宮内庁管理下の陵墓参考地で残念ながら普段は立ち入り禁止です。
宮内庁は、この両古墳は「日本書紀」の神代の天照大神の孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの陵であるとの伝承に基づいてこれを管理しています。学術的には、5C前半というその築造時期からして、女狭穂塚は「日本書紀」の「応神記」にある仁徳天皇の妻となった日向の髪長媛の、そして男狭穂塚はその父で日向の首長であった諸県君(モロカタノキミ)の墓であろうとされています。いわゆる「日向神話」が日本書紀に組み込まれている理由がここにあるのです。
ところで男狭穂塚古墳は前方部にあたる部分が破壊されており、正確な墳形の解明のため97年に全国で初めて陵墓参考地の地中レーザー探査が実施されました。その結果、男狭穂塚は実は前方後円墳ではなく「帆立貝形古墳」であったことが判明しています。
天孫ニニギノミコトも、まさかレーザー光線で自分の墓が調査されるとは想像もしていなかったでしょうね。