【13】五社神(ゴサシ)古墳-神功皇后陵
久しぶりに行ってきました古墳見学。
近鉄京都線の「平城駅」を下車して5分のすぐ間近に、佐紀楯列古墳群のうちの西側の古墳群のかたまりがあります。平城宮跡の遺跡があるのは皆さんご存じだと思いますが、その西北の間近に位置しています。「五社神(ゴサシ)古墳」はこの古墳群の一つであり、古墳群の中では最大規模のものです。
さて、古墳の南側手前に八幡神社があり、祭神が気長足媛(オキナガタラシヒメ・神功皇后)や応神天皇(ホンダワケノミコト)とされています。この八幡神社の北側に五社神古墳が広がっていますが、祭神からもわかるように、この古墳が神功皇后陵(サキノタタナミイケノウエノミササギ)として宮内庁から指定されています。
神功皇后は日本書紀によれば応神天皇の母であり、仲哀天皇の妻で、新羅征伐を実行したとされています。夫の仲哀天皇に神託により新羅征伐を進言しましたが、仲哀天皇がこれに従わなかったところ、神の怒りに触れて急死したとされています。「仲哀」という悲劇的名称はここからきているのでしょうか。
神功皇后は、日本の朝鮮半島に対する植民地支配の合理化に利用されたこの説話の主人公ですが、その実在性については疑問がもたれており、一方日本書紀の作者は、神功皇后の神懸かり的性格から「卑弥呼」と神功皇后を重ね合わせているようです。
さて、五社神古墳は、墳長が273メートルもある大型の前方後円墳で、佐紀楯列古墳群の中では最大の規模を誇る箸墓並みの大古墳です。立派な周濠に囲まれていますが、周濠部分は地元の水利組合が管理しており、墳丘部分に容易に近づけないのが残念でした。
また、古墳の北側には竹林が広がっており、古墳の後円部と竹林との境目が後円部周辺を一周してみても不明でした。周辺からの目視では、古墳と竹林が一体化して見えてしまい、前方後円墳型の様子が充分に確認できないのです。
宮内庁は、近時考古学会等の学術・研究団体の代表に古墳の裾部周辺への立ち入りを認めましたが、五社神古墳への立ち入り調査では、円筒埴輪や葺石の存在が確認されており、その型式から4世紀後半あるいは5世紀始めの築造ではないかとされています。時代的には、日本書紀の神功皇后の記述と符合するようです。