デンマークの労働市場政策(フレキシキュリティ)
1 デンマーク・モデル~「黄金の三角形」・「フレキシキュリティ」
デンマークの労働市場は、「黄金の三角形」と称される3つの要素(①柔軟な解雇規制、②手厚い失業補償、③積極的労働市場政策)から成り立っています。
柔軟さと補償を兼ね備えているところから、「フレキシキュリティ」(フレックス+セキュリティ)とも称されています。デンマークは、この3つの要素のバランスによって失業を大きく減らすことに成功したことで注目されているのです。
2 柔軟な解雇規制
デンマーク・モデルを特徴づける第1の要素は、柔軟な解雇規制です。
生産活動が減少した場合には解雇が容易にできるようにしておきます。そうすれば、企業は、生産活動が増加した場合に正社員を雇用することを躊躇しません。結果として、解雇された労働者にとっても次に再雇用される可能性が高くなるというわけです。
注意しなければならないことは、デンマークにおいても「解雇が自由」なわけでは決してないことです。デンマークでも解雇には合理的な理由が要求されており、人種や性別による差別的な解雇や労働組合員であることを理由とする解雇など不合理な解雇は当然に違法です。ただ、1899年以来の伝統である労使相互の信頼と尊重の精神によって、企業側の経営的判断については労働組合もそれを基本的には尊重する結果として、日本の整理解雇の場合のように、解雇の「必要性」を巡って裁判上の紛争になることはほとんどありません。つまり、「柔軟な」という意味は、労使相互の信頼をもとにして、労働組合が企業の経営判断を尊重するという意味に理解するべきです。
なお、労働組合と使用者団体との労働協約によって、同一労働同一賃金原則が徹底されていることと併せて、企業側としても有期雇用を活用しようというメリットはありません。
3 手厚い失業補償
失業保険に加入している労働者が失業した場合に失業給付を受給できる期間は2010年7月以降、2年間です。これは日本の場合の最大で360日、平均で125.9日(2009年度。ちなみに2008年度は99日。)と比較すれば、十分に手厚い補償です。
もっとも、デンマークの失業給付の受給期間は、かつては事実上無制限でした。その後、それが1994年以降、7年間→5年間→4年間に順次短縮され、2010年7月からはさらに2年間に短縮されたものです。
また、1994年の改革からは、失業者に対しては、就労に向けた積極的な努力がより強く要求されるようになっています。具体的には、全国共通のオンライン・ネットワークに求職登録(CV)を行ったうえ、毎週1回以上の更新が求められます。また、離職後3ヶ月を経過すれば失業者1人1人についてジョブセンターの職員(カウンセラー)と面談のうえで個人別の就労計画の作成が義務づけられます。その後は3ヶ月毎にジョブセンターに出頭して職員(カウンセラー)と面接し、求職活動のみならず、就労に向けた様々な活動(アクティべーション・プログラム)への参加が義務づけられます。これらに違反すれば、失業手当は減額もしくは支給停止されることになるのです。
このように、失業者に対する就労への圧力は、むしろ日本の場合よりも強制的です。
4 積極的労働市場政策
デンマークにおける職業教育は、義務教育終了時点から継続的に実施されています。義務教育卒業者の進路は大きく分けて2つです。1つは中等教育コース(3年)への進学、もう一つは職業訓練プログラムへ進むコース(3~4年)です。前者の中等教育コースの中でも、工業系高校へ進学するコース、商業系高校に進学するコース、普通教育コースと3つに分かれており、日本における普通高校のような普通教育コースへ進学する生徒はごく一部です。これら中等教育コースへの進学者の多くは、さらに上級の教育課程(大学レベル)への進学を目指しています。他方、職業訓練プログラムコースは、座学と職場での実習を繰り返すいわゆる「デュアル・システム」と呼ばれる仕組みをとっています。生徒は最初の1年間は学校で基礎的な教育を受けた後、2年目以降は実習先企業における数ヶ月間の実習と学校での座学を交互に繰り返します。職業訓練プログラムに進学した生徒に対しては、学校での座学の期間中でも企業での実習期間中でも一定の賃金が支払われます。なお、実習先は生徒自身が自らの希望によって受入先企業を探し、面接を受けて、採用されます。職業訓練プログラム終了後、多くの生徒は当該実習先企業に正式に就職することになるのです。
これ以外にも、成人向け教育(国民学校など)があり、全労働者の45%程度が学卒後就労してからも自主的に何らかの生涯教育を受け続けています。
失業者は、ジョブセンターの職員(カウンセラー)との面接において、再教育・再訓練が必要であると判断された場合には、ジョブセンターが提供する各種の再教育プログラム(アクティべーションプログラム。通常は数週間から数ヶ月)を受講することが義務づけられ、あるいは、場合によっては、上記職業訓練プログラムの受講を義務づけられることもあります。
もっとも、デンマークにおける失業者向けの職業教育・職業訓練は、それによって当該失業者の能力を高め、その結果として再就労を実現しようとする目的のものではない、と評価すべきでしょう。むしろ、長期失業者に対してアクティべーション・プログラムの受講を強制することによって、早期に自発的に再就職するためのインセンティブにしようとする観点が強いです。職業能力の開発とは直結しない無意味なプログラムを課せられることもあるようです(鳥の鳴き真似をするプログラム、パスタとマシュマロを用いて工作するプログラムなど)。
5 デンマーク・モデルの評価 ~日本との違いについて~
デンマーク・モデルは、確かに、デンマークにおいては、失業を減らすことに成功しました。しかし、デンマーク・モデルは、デンマークの伝統的な労使関係や労働市場や社会の状況を前提として初めて成り立っているものであって、このモデルをそのまま他の国に導入したとしても、失業を減らし完全雇用を実現することにはならないでしょう。
特に、日本とデンマークとでは、産業構造が決定的に異なっていることを忘れてはなりません。すなわち、デンマークの企業は中小企業が中心であり、産業分野としてもニッチ産業(すき間産業)が中心です。それゆえ、デンマーク企業は、グローバル市場における競争とはほぼ無縁なのです。他方、日本では輸出産業が中心であり、日本の大企業のほとんどはグローバル市場における熾烈な競争にさらされています。そこでは労働コストは直ちに価格競争に反映するのであり、それゆえ、グローバル市場で勝ち残って利益を確保するためには、労働コストをカバーするだけのより高度な技術力や生産性が要求されることとなります。それゆえ、日本における労働者への訓練・教育は、賃金コストを上回るだけの高度な職業技術・職業能力を身につけることができるものでなければならず、それは容易なものではありません。
もう一つ、日本とデンマークとの重要な差違は、雇用の慣行です。デンマークでは1人の労働者が生涯に転職する回数は平均して6回(!)です。実に就労人口の3分の1が毎年転職を経験しているのです。他方、日本では、「新規学卒者の定期一括採用」という雇用慣行が長く労働市場を支配してきました。この新規学卒一括採用システムと終身雇用制度及び年功序列賃金制度は、世界に他に類例を見ない「日本型雇用慣行」と称される特殊なシステムであり、1970年代から80年代の日本の高度経済成長を支えたバックボーンでもありました。このような新規学卒者定期一括採用システムの下では、中途採用の労働市場はきわめて限定的であり、それゆえ、一旦失職した者が再就労することはそもそも容易ではありません。つまり、日本の労働市場では、労働者の教育度合や訓練度合によって採否が決定される慣行がそもそもないのです。
さらに、もう一つ、日本の特殊な産業構造として忘れてはならないのは、大企業を中心とした重層的な「下請」構造による賃金格差です。デンマークでは、労働協約によって産業別の同一労働同一賃金が徹底されおり、同じ産業で同じ職種に就いている労働者の賃金は基本的には同一です。ところが、日本では同じ産業の同じ職種の労働者であっても元請と下請と孫請とでは賃金に大きな格差があります。「下請」構造においては、元請会社の社員と下請会社の社員との間に賃金格差があることは当然視されているし、下請会社の社員と孫請会社の社員との間においても同様です。その原因は、元請会社が製造コストを下げるために下請会社への発注価格を極限にまで切り下げ、下請会社は自らの利益を確保するために孫請会社への発注価格を極限にまで切り下げるからです。元請会社が自社社員の賃金コストを下げることは容易ではなくとも、下請価格を下げることはいとも簡単にできてしまうのであり、このような「下請」構造の結果、日本の労働者の賃金は全体として抑えつけられてきたし、下請や孫請においては法定最低賃金の水準ですら雇用の維持さえままならない状態になっているのです。
■日弁連のデンマーク調査報告書もご覧下さい。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/committee/list/data/danmark_report.pdf