【11】古代朝鮮・百済の武寧王陵訪問記
髭の徳さんはついに海外の古墳も訪問しました。韓国の公州市にある宋山里古墳郡内にある武寧王陵です。
日本の6世紀前半の継体天皇陵(今城塚古墳・高槻市所在)と同時代の古墳です。日本の古墳では、誰が被葬者かを確定できる墓誌・誌石が発見されることはありません。ところがこの武寧王陵については遺体が埋葬されている部屋に至る通路に誌石が置かれていたのです。
この誌石によれば、武寧王は523年5月7日に亡くなり、3年目の525年8月12日に埋葬され、王妃は526年12月に亡くなり、529年2月12日に埋葬されたことが記されていました。これほど被葬者やその死亡年月日、埋葬日が特定されている古墳は珍しいものです。日本の古墳にもこのような誌石があれば、古代史の解明は飛躍的に進んだでしょうね。
さて、武寧王陵については本物の埋葬施設内には立ち入れませんが、実物と同様の埋葬施設が復元されておりこの見学は可能です。ところが、残念なことに補修工事中のため立ち入りができませんでした。その代わりと言っては何ですが、この武寧王陵を研究している韓国の考古学者の方が武寧王陵前で詳しい説明をして下さいました。特筆すべきは次の2点です。
(1)発掘された副葬品である環頭大刀や銅製飾靴を始めとする金銅製品の姿は、日本の同時代の古墳から出土するものと本当に瓜二つであり、当時の日本・倭国の王権と韓半島の百済王権がいかに密接な関係にあったかが、遺物という物証で裏付けられるということです。ご承知の方もいるかも知れませんが、この武寧王は「シマ王」として日本書紀に登場し、北九州のシマで生まれたとされている人物です。また聖明王という倭国に仏教を公伝した王の父に当たる人物でもあります。
学説の中には、4世紀後半以降の朝鮮半島での高句麗の南下政策に対抗する「倭・百済軍事同盟」の存在を見る見解もあります。時代は遡りますが、奈良県の石上神宮に所蔵されている4世紀後半の「七支刀」もその証拠といわれています。
(2)もう1つは、この武寧王周辺の宋山里古墳群を最初に発見し発掘したのは日本人で、朝鮮半島が日本の植民地であった戦前のことであり、その日本人が朝鮮半島の古代を解明する上で貴重な各種遺物を持ち去った可能性があるということです。
調べてみると1947年には韓国は東京のGHQに対して宋山里古墳群等から持ち去られてた様々な朝鮮文化財の返還を要求しています。先だって日本政府はようやく韓国に対して植民地時代に奪った朝鮮文化財を返還しましたが、その中には宋山里古墳群からの遺物は含まれていなかったようです。過去の清算は依然として未了なようです。