【12】見瀬丸山(五条野丸山)古墳 – 被葬者は誰?
近鉄岡寺駅を降りて東側を走る国道169号線を北上すると、すぐに見えてくるのが見瀬丸山古墳です。所在地の住所は「見瀬町」ではなく正確には「五条野町」とのことで、五条野丸山古墳とも言われています。
6世紀後半の前方後円墳で墳丘の全長は380メートルもあります。この時期の前方後円墳としては全国で最大の規模です。写真(1)の如く見上げるような形での後円部が鮮やかです。
この古墳の被葬者はいったい誰か?その変遷を見ると天皇陵指定の問題性が垣間見えてくる典型的な例です。江戸時代から明治の初期までは天武・持統両天皇の合葬陵として考えられてきており、現に明治4年には正式に天武・持統合葬陵(檜隈大内陵・ひのくまのおおうちのみささぎ)とされました。
ところが明治14年に、天武・持統陵は飛鳥にある野口王墓(現天武・持統陵)であることを示す古文書が発見されたことから、天皇陵から格下げされた陵墓参考地になってしまい、しかも当時では広大な前方部の存在が認識されず、単なる円墳とされていました。そのため後円部だけが現在も宮内庁により管理され、前方部には立ち入り自由という状態です。前方部を写した写真が(2)です。なお、この古墳が円墳ではなく前方後円墳であることが判明したのは航空写真によるようです。
ところでこの古墳の後円部に巨大な横穴石室があり2つの石棺が置かれていることが、明治5年に大阪造幣局の技師として来日したイギリスの冶金学者ゴーランドの調査によって判明しました。ゴーランドは余暇の全てを日本の古墳の調査に費やしていたという人物で、石室内に立ち入って石棺2つを現認した様子を描写しています。
驚くべきことに平成3年に至って、会社員が石室に立ち入って撮影したカラー写真を朝日放送が考古学者の検討結果を踏まえて公表するという前代未聞の事件が起こりました。これに応じて宮内庁も石室内の調査を実施し、写真(3)がその一部で、現地に現在もパネル化して掲示してあります。
ところで現在ではこれらの調査結果からして、この古墳は571年に没した欽明天皇陵で、合葬されているのは堅塩媛(キタシヒメ・蘇我稲目の娘)であろうとする説が有力になっています。最も蘇我稲目自身の墓ではとの見解も有力なようです。なお宮内庁は飛鳥にある「梅山古墳」を欽明天皇陵としてして管理しています。
古墳の被葬者は誰かという問題への回答は、この例のように簡単ではありません。しかし逆に言えばそれが古墳への興味と関心を呼び起こす原動力なのかも知れません。正体不明の魅力ですね。