【9】継体大王と抗争した九州の筑紫君磐井の墓 ~岩戸山古墳~
2011.11.28
徳井義幸
前回紹介したヤマト王権の大王継体に反抗し、527年(継体21年)に北九州の諸勢力を糾合してヤマト王権と戦争した人物が筑紫君磐井(つくしのきみいわい)です。
ヤマト王権からみれば国土統一戦争であったともいわれています。そしてこの筑紫君磐井の墓とされるのが福岡県八女市にある岩戸山古墳(墳丘長144メートル)です。「筑紫国風土記」の逸文に筑紫君磐井の墓の模様が詳細に紹介されており、別区と呼ばれる方形の区画部に石で作った人や馬の像(石人・石馬=写真参照)等が並べられていたことを始め、風土記での描写と岩戸山古墳の状況は完全に一致しています。
従って、間違いなく筑紫君磐井の墓であるとされています。現在は周辺が史跡公園として整備されており、きれいな緑の墳丘が目に鮮やかです。
日本書紀によると、筑紫君磐井は継体大王の使者に対して「昔は肩や肘を接して同じ釜の飯を食った仲ではないか、なにを偉そうな」という旨の反抗的態度をとり、ヤマト王権に服従しなかったとされています。戦争自体はヤマト王権の勝利で終わっていますが、継体大王陵とされる今城塚古墳の墳丘長は190メートルであるのに対して、岩戸山古墳の墳丘長は144メートルもあります。
このことからも伺われるように、その力関係の差はそれほど大きくなかったのです。そしてこの戦争での勝利を契機にヤマト王権は地方の豪族をヤマト王権の地方官である「国造」に任命したり、ヤマト王権の直轄地である「屯倉」を各地に設置するようになったとされており、地方支配の強化に乗り出していきます。
さて、この岩戸山古墳は天皇陵ではないので宮内庁の管理外で、墳丘上に誰でものぼることができます。私も登ってみると写真の通り祠が設置されていました。古墳全体が神社となっているのです。