【5】隣に眠っていた孫娘 ~越塚御門古墳~
前回訪問した斉明天皇陵=牽牛子塚(ケンゴシツカ)古墳の墳丘のすそから、なんと同時期の古墳・石室跡が見つかりました。
寒風の中を2010年12月12日の日曜日に現地見学会に行って来ました。本当に牽牛子古墳すぐ隣の20メートル程しか離れていない位置で、その近接振りに、まずはびっくり仰天でした。
日本書紀の記述によれば「皇孫太田皇女を、斉明陵の前の墓に葬す」あり、牽牛子古墳が斉明天皇陵とすれば、今回発見された古墳・石室は間違いなく斉明天皇の孫娘「太田皇女」の墓でしょう。マスコミでも大騒動の報道ぶりでしたから皆さんもご覧になったことでしょう。
現地では、水色掛かった石室の床石と天井石が鮮やかに確認できました。石室の総重量は約80トンはあったと推定さされるとのことです。現場はかなりの高台にあるので、それだけの重量の石室を運搬するのは大変だったであろうと想像されます。また石室に至る石敷きの墓道も確認できます。ところで、現地の住居表示は、明日香村大字越小字塚御門194番地とのことで、大字と小字から「越塚御門古墳」と命名されたそうです。
被葬者であろう太田皇女は、天智天皇の娘で、後の持統天皇の姉にあたります。持統天皇は我が子である草壁皇子を天皇とすべく皇位の競争者であった大津の皇子を謀殺しますが、その謀殺された大津の皇子の母にあたることになります。若くして亡くなったようですが、わが子が我が妹によって謀殺されるという、権力闘争の血の犠牲者を生み出す古代天皇制国家の確立過程での悲劇を目のあたりにせずして亡くなったことは、せめてもの救いかもしれません。
いずれにせよ、3代の女性が寄り添うように埋葬されている背後には、母斉明天皇、妹間人皇女、娘太田皇女の3人の女性に対する、時の最高権力者天智天皇の思いが込められているのでしょうね。