【1】卑弥呼の宮殿跡か!? ~巻向遺跡~
2005.11.15
徳井義幸
第1回は、つい最近新聞紙上を大きく賑わした「巻向遺跡」の大型建物の柱跡の現地説明会の参加記です。
「巻向遺跡」は、日本古代史の最大の論争である「邪馬台国論争」において、畿内説の立場から巻向遺跡こそ卑弥呼の「邪馬台国」であるとして、大きな注目を集めてきました。弱点とされてきたのが、卑弥呼の宮殿等の建物関連の痕跡が見つからないということでした。
今回の3世紀前半の建物の柱跡の発見は、卑弥呼の活躍した3世紀前半という時期の付合のうえに、その時期の建物遺構としては日本最大のものとされており(復元床面積約240平方メートル)、正に卑弥呼の宮殿かと大騒ぎになったものです。
しかも、これまでに発掘されている隣接建物遺構と含めて、建物中心部が東西の軸線で計画的に配列されていたことも判明しています。「君子は南面する」という中国の思想の影響で、藤原宮や平城宮が南面しているのに対して 巻向遺跡、それ以前の建物として東西軸で建築されている点も注目されたのです。
私は、現地説明会2日目の11月25日に参加したのですが、参加者多数のための入場制限で、寒風の中をなんと1時間半以上も待たされました。しかし、発掘現場にいくと、寒風など何のそので「これは、確かに卑弥呼の宮殿跡や。卑弥呼の臭いがするやん」と、とにかく感無量でした。もっとも解説員の方は、卑弥呼が中国の魏からもらった「親魏倭王」の印鑑でも見つからないと九州説の人は、納得しないであろうと慎重な意見でしたが。
携帯で写した写真を1枚おみやげに添付しておきます。